[TOP]司運之狭間
2013/03/22(Fri)  三蔵フライデー「司運之狭間」(001)  

月光寺で最も新しい行事が「湖周天」
駆馬(かけうま)神事と呼ばれている。
龍が住むと信じられている池「水主城・みずもき」を馬で回走して行くのだが、かなりの難行とされていた。難行の理由は「水主城」とされている池の周囲には、走り易い道が無い。そこで、道を敷く作業から始めるのだ。
村にとっては大事業になってしまう。公資料には残っていないので、単なる伝承だと思ってもらうしかない。

師から聞いた駆馬についての言葉
「駆馬は龍神を動かして水気を呼ぶ。火気を抑えては水火を調え、人には司運を与える。星を結んでは個を現して、願いを具(つぶさ)に叶える試みを得意としている」
一聞、何のことか分からない。十代の私は呪文のように憶えて口にした。高校三年になって間もなく125ccのモーターバイクで琵琶湖を一周したことがある。雲の形が龍神に観えて、自分と一緒に移動しているかのようだった。それ以来、願ったことが叶うようになった。

琵琶湖を「水主城」とするならば、頼もしい大きさだ。昔は、大き過ぎて、駆馬神事を行えるような相手ではなかった。しかし今は違う。行政が湖周に道を敷いてくれた。駆馬は鉄馬によって長時間の走りができる。辰中三修(注一)も難しくはない。有難い時代になったものだ。写真は2013年2月2日投稿「優女着岸嬉話」で話題にしたハーレーの日本上陸100年モデル。

(注一)辰中三修(しんちゅうさんしゅう)辰は日を現すので、一日に三回の修法が可能なこと。つまり一日に三周、琵琶湖を回る。



2013/03/29(Fri)  三蔵フライデー「司運之狭間」(002)  

キプロスショックと云う言葉を聞いた。
ここで私が説明する必要はないが「変な宗教家の山下(注一)さんなら、どんな言を云うだろう」と興味を持つ人はいると思う。素人目に「お金持ちの受難」だと単純に思うだけの人なら世界情勢には疎(うと)い。神霊学を齧(かじ)った人だったら「金毛九尾の世界経済撹乱」と思うかもしれないが、それだけでもなさそうだ。

そこで登場してもらうのが御馴染みの真条師匠。但し死んだはずの人なので、私の記憶から辿ってみることにする。

真条師は「わては人間社会のことはよく知らんし」と云っておられたが、歴史や世界情勢に詳しかった。(そんな人なので)当然キプロスを語ったこともある。

最も印象深い言葉が「キプロスはギリシャ神話の臍(へそ)のようなもんでのう。ゼウス達が母体から栄養を貰った場所やがに、常立との密会処やで。神明の逆象とでも云うと分かり良いんに」だ。これを聞いて(なるほど)なんて思った人は「神霊学おたく」とでも言える輩(やから)に違いない。

写真は(キプロスショックとは無関係そうな)鏡子カラオケワンショット。

(注一)高田三蔵の本名、山下訓弘。



2013/04/05(Fri)  三蔵フライデー「司運之狭間」(003)  

ポツダム免許と云う言葉を御存知ですか?
ポツダム宣言なら学校でならったような!
そう云えばポツダム大尉ってのもあった。

現代史は一次資料も豊富なので、自分が生まれる前の出来事も実感できる。私は歴史に詳しくはないが、学校の授業は聞いていたので「ポツダム宣言」のことは知っていた。第二次世界大戦の終結「全日本軍無条件降伏」を求め、発せられたものだ。ポツダム将校は「終戦のドサクサに昇進した将校」と云う意味らしい。俗っぽく言うと「棚から牡丹餅」で、昇進した将校(注一)と言える。其れを起因として「ポツダム〜」とは「思わぬ得もの」或いは「実力に合わない資格」と云う意味の俗語のようだ。

そこで本題「ポツダム免許」だが、日本国行政運転免許史上中の異端特権であると察する。正に「司運之狭間」に得た特権だ。1960年から1965年の間、普通自動車免許もしくは大型自動車免許を取得したものには自動二輪免許が付帯されていた。それは大型二輪の乗車未経験者で、しかも高齢者が免許を所持していることになる。現在でも大型二輪の取得は難しいのに、大型二輪取得が困難極めた頃に「棚から牡丹免許」が存在していたのだ。

ところで「ポツダム免許」と月光寺との関わりだが、月光寺幹部に三名の「ポツダム免許所持者」がいる。それは月光寺にとっては有難いのだ。

駆馬(かけうま)神事は、率龍體であるバイクを積載した車に乗っていても登壇ができる。但し、行政が許可した大型二輪免許が必要なのだ。つまり、神主や僧侶の教師免許に相当する。写真は率龍體を積載した車を運転している、まみ子。


(注一)ここでは言葉の側面を捉えているのであって、正確な歴史学の見地から考察したものではない。



2013/06/07(Fri)  三蔵フライデー「司運之狭間」(004)  

殆どの宗教に儀式がある。神を祭祀することから始まり、積極的に神を呼寄せることで窮みを憶える。
宗教学を持出して学者ごっこをするのは簡単だが、誰かの訳に立ちたいのなら、気取らないほうが良さそうだ。そこで思いつきを話すことにした。

我々が口癖のように使う「符」と云う単語がある。単純には「図柄」のことだ。
堅苦しい定義はやめにして、ここではパソコンで使用するアイコンと存在意義をダブらせてみる。アイコンをクリックすればプログラムや機能が呼出されることになっている。(それに符をダブらせると)符を眺めれば、魂の機能が呼出されることになる。

我々が使う「司運」は主に北斗九星(注一)の働きを指す言葉だ。単に「運気を司る力」を表現する場合もある。
もう一つの意味は「森羅万象自然に流れるが司運也」と云う(注二)伝承。これは大袈裟に言っているだけで、普通に時間が経過して行くことだ。

写真は、私の次男が発行しているササヤカな同人誌。普通に描かれている何でもない司運誌だ。その狭間に「符」を入れてみた。十一代導士が「未来に触れた符」と云う設定だ。
新規ムーンライトスタジオでは、このような出版物も扱う予定にしている。

(注一)北斗七星に、左輔(さほ)星と右弼(うひつ)星を加えた九星。
(注二)四五神相共策記(私文書)中で十二代導士の言葉とされている。



2013/09/06(Fri)  三蔵フライデー「司運之狭間」(005)  

ぺ・ヨンジュン出演の「冬のソナタ」が日本国内で話題になった2003年から2004年、私は自身の体調を整えるのが大変だった。友人や親戚に医師がいる御蔭で色んなアドバイスを頂いて、自分なりの養生生活をしていた。私はあまりテレビを見ないのでぺ・ヨンジュンの名も知らなかったが、友人宅へ訪問中に目に入ったNHK番組でぺ・ヨンジュンのインタビューをおこなっていた。それで「冬のソナタ」を知った。その後2005年秋、DVDを買って一気に観た。子供の頃から韓国人の友人が多かったせいもあって韓流ドラマに親しみを感じた。

そう云えばDVDのレンタルショップには韓流コーナーがあるようだ。これは日本にとって有難い司運なのだが(何の因果か)日韓の狭間には重縛な念粒が漂っている。個人的な話をさせてもらうが20代後半の時、韓国の円光大学に用事があって、大学内へ数日宿泊した。そして交流した教授方には親切にしてもらったことを憶えている。その頃から私の司運力は増していった。そして平成24年3月、講談社フライデーが迂闊なことをしたことで私の大きな目的が果たされる可能性が出てきた。誠に司運とは面白いものだ。

先月下旬、久しぶりに韓流ドラマを観た。時代劇と現代劇の両方ともに一貫しているストーリーがあった。それは登場人物に「中傷を常套手段にする者がいる」ことだった。どこの国のドラマでも「ありそうなストーリー」なのだが、韓流ドラマのそれは濃厚だ。忙しい中、DVDで韓流ドラマを見ている自分に疑問をもった。しかしドラマ中、大変参考になった部分があった。「全部作り話だけど世間は信じてる。あなたのイメージが、そうさせたんじゃありませんか。まさかじゃなくて、やっぱりと思われています」と、悪役が言った(注一)セリフだ。私にはイメージが幾つかある。どのイメージを使うかが、私を中傷するテクニックのようだ。

写真は私が「冬のソナタ」のDVDを観た頃の泉野鏡子。

(注一)NHK DVD「シークレット ガーデン」第14回 23分あたりの日本語吹き替えでのセルフ。字幕では少し違った言い方だった。



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