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2012/11/02(Fri)  三蔵フライデー「神様製造法」(001)  

私の眼中には便利なキズがあった。パソコンディスプレーに現れるポインターのような感じで、左目の視界に出現していた。子供の頃は、それが読書に役立った。読んでいる文字を、そのキズが追ってくれたからだ。
小学校4年生の時、母親に話したら「便利いいんやね!」と、喜んでくれたことを憶えている。30歳中頃になって、そのキズが無くなっていることに気付いた。

小学生のある時、近所のおっちゃんが家の前に立っていた。「おっちゃん何」と聞いてみたら(おっちゃん死ぬからな、訓ちゃんの顔を見にきたんや)と答えてくれて スッと 消えた。その事は直ぐに母親に話した。母は「訓弘、その事は絶対に人に話したらアカンで!」と、厳しい表情だった。それから十日くらいしてから(そのおっちゃんの)葬式があった。

中学生になってからは氏神様へ参るのが楽しみだった。
氏神様には「いぼ大神」と云う木があって「霊験あらたか」だそうだ。但し、その木について自覚したのは二十歳を過ぎてからだった。それまで私は(その木の位置に)髪の長い女性が立っていると思い込んでいた。その頃、それが木だとは気付いていなかったようだが「神様の正体は何だろう」と真面目に考え始めたのは高校生になってからだ。

高校生になってから、師と「神様について」論議した。私は「科学的」と云う言葉が好きだったので、科学的に神様を考えてみた。師は神相学派の導士なので、学派伝承に論拠を見出す。私は物理学やら電気工学やら(いわゆる理科)を持出して語った。結論は毎回「異界の生物」だと云うことで落ち着いた。但し「こう云うのが神様だ」と云うのは、人間が勝手に製造する。そして「人々に影響力のある人が作った神様」が「これが神様だ」と人々に思い込まれる。
ところで「人々に影響力のある人」は、時代や地域によって変わる。だから「こう云うのが神様だ」と云う意味での神様は、イッパイ製造されていく。

それから、自分流で想う神様は「自分を苦しみから救ってくれる何か」だと思う。自身の都合を100パーセントだしての神様像なのだから「自分を幸せにしてくれる何か」なのだ。そう云えば十代の頃、初めて「これが神様だ」と体感的に思えたのは、氏神様の境内で女性の裸身を観た時だった。添付写真は泉野鏡子が高橋真梨子の「そっと…Lovin' you」を歌っているところだが、氏神様の境内に居た女性の髪と身体つきは「こんな風」だった。

(注一)大宮神社(大阪市旭区大宮3丁目)創建は1185年。真条師の私話では、豊臣秀吉が大阪城の鬼門守護に定めた頃「闇に住む大龍神が淡路島の地中から現れて、斗解地に降臨した」そうだ。斗解地(とかいち)とは大宮神社に対して、真条師が個人的に呼称していた名称。



2012/11/23(Fri)  三蔵フライデー「神様製造法」(002)  

宗教者の多くは「神様が居る前提で」神様を論じる。居るには居るだろうが、夫々云うことが違う。宇宙創造神クラスの神様だったら、私流に言わせてもらえれば「最新の科学知識で考える」ほうが確かなように思う。もちろん「科学で考える人が神様を信じるのか」なんて言う馬鹿な話をする人も大勢いる。そんな人は「科学が何か」を知らないのだ。

私は「理科大好き少年」だった。宗教者としての師匠と「神様は何か」について論議した。いささか反抗的にも観える少年の言葉を、師は微笑みながら受けてくれていたのだ。「僕が見たのは神様なのかなぁ」と、神社に参る度に見える映像を師に報告した。「念の粒子が固まって石等に印象されたものを、たまたま僕が特殊な眼をしていて見た」というのが中学生の頃の考えだった。その頃の私は、壊れたラジオやテレビの修理で金儲けをしていた関係上(神様論議に)電気の理屈を当てはめようとしていたのだ。
率直に言って、神社で見えた何かを「神様だ」なんて思ってはいなかったのだ。(もしかしたら見えた者や聞こえた言葉を、単純に神様だと思う軽率な人達が居るから色んな神様がいるんや)と思っていた。

高校生になってからは早速、電気工事師免許を取得することにした。筆記は一年生でも合格出来たが、さすがに実技試験は(全く経験がないので)二年生になってからの合格だった。一年生で筆記を合格したのは学校(注一)創立以来「山下君が初めてです」と校長先生が喜んでくれた。筆記試験に合格した時「御祝いじゃ」と云って師は「透眼法」教えてくれた。透眼法は約二ヶ月で会得した。師に報告したら「これから、もっと観えるで!」と大笑いしておられた。

「鰯(いわし)の頭(かしら)も信心から」なんて言葉もあるが、その乗りで云うならば(小学生上級頃から)私が神様だと感じたのは「裸女」だった。氏神様の境内で女性の裸身を観た時以来(夢か幻か)金髪女性(注二)をよく見るようになった。友人に話すと「外国映画を見てるから、金髪の女を妄想するんやろ」と返されたが、それが幻であっても「僕にとっては女神様に出会えていた」のだ。
師に話したら「それは、わてには判からんわ」との一言。

話は大学に飛ぶが(仕事をしながら)私は佛教大学通信科に在籍していた。佛教学科なので「比較宗教学」を学ぶ機会があった。代表的な副読本はヴァーモント大学のウイリアム・E・ペイドン教授によるものだ。最初に読んだのは阿部美哉(あべよしや)教授の翻訳本(注三)で、大学卒業後に原書で学習した。そして30数年経た先月、再読を試みようと思い立って新たに購入した。その動機は「20代後半、教師をしていた頃の自分の考え」を正確に思い出したかったからだ。ペイドン教授が語る比較宗教学は「人は神様をどの様に製造してきたか」を考える上で(20代の私にとって)絶大に信用出来る研究論文だったのだ。

ペイドン教授の比較宗教学は「宗教を真面目に考える人」にはお勧めだ。若かった私が心情として印象深かった一節は、19世紀の有名な宗教者シュリ・ラーマクリシュナの言葉の引用部分だった。
・・・一つの湖へは複数の通路がある。ある場所ではヒンズー教徒が壺に水を汲んで「ジャル」と呼び、他の場所ではイスラム教徒が皮袋に水を汲んで「パニ」と呼ぶ。そして別の場所ではキリスト教徒が、それを「水」と呼ぶ。・・・(注四)
同じものを違う「名」で呼んでしまえば、別のものに感じてしまう。人間の立場や都合で、同じ神でも違うものにしてしまう。(同じものでも・・)と心で繰り返しながら「神様が複数居るのだったら、大変な数の神様が製造されるなぁ」と、20代後半の私は溜息をついていたのを思い出した。
写真は2012年11月8日、天之鈿女命を祭る椿大神社別宮「椿岸神社」透眼法で集中すれば、美しい裸身女神を拝することが出来る。


(注一)大阪府立淀川工業高校。私は電気工事師免許を取って、早く収入を得たかったので電気科に入学した。親は普通科から大学進学を望んでいたが「大学へは必ず行きます」と約束をして入学を許してもらった。
(注二)氏神様の境内で観た女性とは別人。気のせいか幼い頃にも観たような気もする。面白いことに、シモーヌさんとそっくりだ。
(注三)東京大学出版会 1993年4月15日 初版「比較宗教学」
(注四)A lake has several ghats. At one the Hindus take water in pitchers and call it“jal”; at another the Mussalmans take water in leather bags and call it“pani”. At a third the christians call it“water”.
from P31 ・・・Beacon Press・・・Religious worlds:the comparative study of religion / William E. Paden・・・



2013/01/04(Fri)  三蔵フライデー「神様製造法」(003)  

Direct Wave では・・・
鏡子ちゃん褌姿で新年が始まった。
それで思い出したのだが・・・
私が18才の時、師に「ふんどし」について質問をしたことがあった。今になってみれば笑い話なのだが、当時の自分としては真面目そのものだった。

「師匠、褌は神様が人間に与えたのですか。それとも人間が発明したのですか」師は聞くなり意外なことを言った「わての褌はわてが発明したんに」私は一瞬ためらって思わず「えっ!」と言ってしまった。後で理解したのだが、師は昔ながらの女性なので本来下着を付けない。ところが自分なりに工夫して褌を着けることがあったらしいのだ。生理の対処ではなく、呼吸法での行衣として工夫したと云うのだ。呼吸法が深まっていく過程で性器が大濡れになって困るから「股に布を当てて染込ませ」行衣としたそうだ。

話を元にもどして、私の質問に対する師の回答では「褌は龍宮乙姫が最初に着けて、下女達に法具として使用させた」と云うのだ、つまり真条話では「褌は女の法具」なのだ。それを聞いた18才の私は「褌を着けて人魚のように泳ぐ女神様を龍宮乙姫として」自分流の神様を製造してしまった。ところで「褌は何の法具か」に対する真条話の設定は、女隠(めかくし)と云う使い方をするそうだ。女隠をされた男神は身動きが鈍って扱いやすくなる。或いは星神に通じなくなって走路を見失ってしまう。しかし世の男性諸君、御安心を。真条話褌論には締め括りがある。女隠が通用するのは男神であって、人間男性ではないのだ。浦島太郎のように、龍宮へ行ってしまった場合は例外かもしれないが・・・。

写真は2005年8月2日撮影の「鏡子ふんどし姿」これは水着である。



2013/02/08(Fri)  三蔵フライデー「神様製造法」(004)  

本日未明「加賀へ行ってきます」
と、鏡子ちゃんへメールを送信した。
数分して電話「私、運転しますよ」・・・
「起きてたのか、寝てると思ってた」

三蔵フライデーの起因は・・・講談社が月光寺中傷事件に加担したことに端を発する。講談社のフライデーは写真雑誌だそうだ。だから写真が最も重要な取材要素になる。そこで三蔵フライデーとしても、たまには「記事投稿に当日取材の写真を掲載しよう」と思いついたのだ。

今朝の取材は加賀大観音で知られる高さ73メートルの慈母観世音菩薩像だ。菩薩像の製造動機は「純粋な信仰なのか、或いは観世音菩薩を利用した経済活動なのか」それは分からない。私が今回問題にしたのは「現在この観音様が違法存在になってしまっている」ことだ。航空法では、高さ60メートル以上の建造物には航空障害灯の設置を義務付けている。航空機夜間飛行の安全を確保するためだ。ところが今、加賀大観音の航空障害灯は消えている。
その理由は「電気代が払えないから」なのだ。

因みに高さ60メートル以上の大仏は全国に六體(注一)おられる。
その内四體は無事に航空障害灯が点灯しているのだが、淡路島の世界平和大観音も航空障害灯は消えている。何れにせよ「人間の思い、或いは都合等」で仏像は製造されたものだ。人間が造ったのだから、人間社会の法律に合ったものが好ましい。祭司があって壇を築く、祭司が終われば破壇するのが作法だと思う。仏像であれ神社であれ「造るならば、壊す場合のことも考えておく」それが神様に対する礼儀ではないだろうか。

(注一)北海道大観音(88m)芦別市・仙台大観音(100m)仙台市・牛久大仏(120m)牛久市・加賀大観音(73m)加賀市・世界平和大観音(100m)淡路島・救世慈母大観音(62m)久留米市・



2013/05/17(Fri)  三蔵フライデー「神様製造法」(005)  

陰暦十月のことを「神無月・かんなづき」と云うのを御存知だろうか。出雲国では同十月の異称を「神在月」と呼ぶ。理由は「十月には全国の神様が出雲大社に集まるから」らしい。しかし宗教学の立場では俗説扱いになる。ところが信仰としては(伝説だろうが俗説だろうが)人々が受け入れればよいのだ。

そう云えば私が高校3年生の時、師(注一)に質問したことがある。「神無月は日本中の神様が出雲に行かれるのですか」師は笑いながら「行く神様もいるじゃろうな。江戸幕府の参勤交代みたいなもんじゃが、出雲勢力に属する神様と思い付き参加の神様くらいに思うぜな。数を言えば日本で一番多いのは八幡様やし、本社の宇佐神宮なら年中賑やかじゃ」と云われた。
師は九州人なので宇佐神宮を贔屓(ひいき)しているのかもしれない。

5月に陰暦十月の話をもちだしたのは、10日に出雲へ行ってきたからなのだ。出雲大社では「平成の大遷宮」真っ只中、特に10日は「本殿遷座祭」と云う始祭日に当たる。社殿は参拝者で溢れ、地元の人々も初見になる大賑わいだった。私は裏山神域に参って大衆を避けた。

写真は修繕中の本殿、平成24年3月11日に参拝した時に撮影した。

(注一)神相学派九三代導士 真条師。



2013/05/24(Fri)  三蔵フライデー「神様製造法」(006)  

平成25年5月10日、出雲大社では「本殿遷座祭」と云う祭礼日「平成の大遷宮」真っ只中。境内から周辺参道まで参拝者で溢れ、地元の人々も初見になる大賑わいだった。私とメニスは大衆を避けるべく裏山神域に参って、自分達なりの参拝法を行った。そして本殿に向かう復路で二匹の狗(いぬ)に出逢った。

最初は雌狗を観た。「オッパイが大きくなっているので母狗やわ」とメニスが感動混じりの声で呟いた。その位置から数十メートル進むと、雄狗が道路から我々を見ている。そして斜面をユックリと登っていった。車の動きを止めて、私は慌ててカメラを出して雄狗に向けた。すると立ち止まって、こちらを向いてくれた。「神様の使いかな」とメニスが言った。

神や死後世界を信じている人達の中には「人間の魂は動物には転生しない」と主張するグループがある。仏教を学ぶ者ならば、六道輪廻の中に畜生道があるのを御存知だろう。月光寺では入異象行(にゅういしょうぎょう)と云う考え方があって、動物の身体で修行する仙人が存在することになっている。

何れ詳しく語ってみたいが、今回は出雲大社裏山神域で「狗に遭遇してメニスが感動した」と云う事実記録に止めておく。
写真は出雲大社裏山神域にて、カメラを向けたら立ち止まってくれた雄狗。



2013/06/14(Fri)  三蔵フライデー「神様製造法」(007)  

北海道には日本一長い直線道路がある。全長29.2キロメートル、国道12号線が其の道を担う。通称30キロ道路、私はアキサス(注一)と呼んでいる。更に美唄から滝川への北行きを昇路、滝川から美唄への南行きを降路と区別している。
私的なことだが、龍神の昇降路をイメージした結果である。

人の性格を分別するには、色んな分け方がある。私は一法として「何事にもケチを着ける人」と「何にでも感謝をする人」に分けてみることがある。もちろん程々(ほどほど)に混ざっているのが良いのだが、どちらかに片寄っているのが普通だ。
私自身が何れに属するか自己判断は出来ない(注二)が「出来るだけ感謝の気持ちを持とう」とは思っている。

平成25年6月10日、滋賀を出発して千葉へ向かった。御神図を絵師に依頼するためだ。その用は予定どうり11日に完了。台風の進路を気にかけながらの進行だったが、台風の進路は東に逸れた。それで12日、大洗港から苫小牧に渡った。私は「龍神様が台風を逸らしてくださった」と、感謝をすることにした。

苫小牧着は13日13時30分昼。先ず静内に入ることから始め、そして美唄に移動して空知(そらち)神社に参拝した。
空知神社は北海道における駅龍地(注三)だと私は信じている。

13日夜は美唄に宿泊、14日はアキサス昇路から滝川を経由して旭川市豊岡に行った。そして滝川に戻り昼食を済ませてから、アキサス降路にて美唄に入った。そして最終目的の支笏湖を拝した。
アキサスと支笏湖は今後、駆馬神事の重要な修法路となる。
・・・苫小牧から敦賀へ向かう船内にて。

写真は平成25年6月14日19時20分、支笏湖畔にて。

(注一)AXIS 一般的にはアキシャスと音写するが、私は今までとは違った使い方をしたかった。それにアキシャスと聞くと、第二頸椎と云う接骨院での会話を思い出してしまうから。
(注二)誰が観ても「何にでもケチを着けている人」に、「あなたは感謝の心が強いですね」と言ってみると、力を込めて「私は何にでも感謝するよう心掛けています」と言うのが普通だ。自己判断は第三者の判断と食い違うことが多い。
(注三)龍神が異界を移動する為の足場。場所と時刻で構成される。



2013/07/05(Fri)  三蔵フライデー「神様製造法」(008)  

いつの頃だったか正確な日時は忘れたが、見るからに病弱な子猫が犬に睨(にら)まれて怯えていた。その子猫を保護して家に入れ、ミルクをあげた。数日して元気になって、畳の上を走り回っていた。
しかし生まれながらにして脊椎が不具合だったため、二ヶ月くらいして死んだ。
私達はチビと呼んでいた。

チビが死んでから半年くらいの頃、母が強度な蕁麻疹(じんましん)になって苦しんでいた。病状が出て一週間ほど経過、母はチビの夢を見た。目覚めて思わず「チビが治してくれる」と、言葉が母の口を突いた。その次の日、母が目覚めたら蕁麻疹は消えていた。
偶然かもしれないが、母にとって「チビは神様になった」のだ。

2012年滋賀の家、野良猫が三匹子供を産んだ。その内一匹は病弱で不具合があった。「長くて三ヶ月の命だなぁ」と、家族には告げておいた。私は大阪の家で、30年前に出逢ったチビのことを思い出した。年上の家内は、その猫のことをチビと呼んだ。予想どうり2012年のチビは、私達と出会ってから約三ヶ月で死んだ。(あのチビの魂が来たのかもしれない)

2013年やはり滋賀の家、同じ野良猫が再び三匹子供を産んだ。その内二匹を家に入れることができた。一匹は父猫そっくりの黒。もう一匹は母猫似の黒白で・・・チビを思わせる外見だ。
三体目のチビは元気だ。脚から自力で頭上まで登って来た。



2013/11/08(Fri)  三蔵フライデー「神様製造法」(009)  

(006)で話題にした(注一)入異象行(注二)であるが、子供達を寝かす為の御話には最適だ。動物を恐れ、或いは、動物に癒されるストーリーが展開する。
聞く者は野生と理知を往来し、創造を掻き立てられては心を躍らされるのだ。

人間の暦史は人間によって作られる。甲種業(注三)に関わるには、それを担う人達と関わらねばならない。縁があって出会うのは夫々の徳によるが、普通は会いたい人と出会あうことが難しい。
もちろん「人と人」での話だ。

憧れのスターに会いたくて家の周囲を歩いたら、警察に通報されるのが落ちだ。しかし「動物の姿で現れれば」会えるかもしてない。人間としては会えない人と、人間以外の姿で会うことができれば異道(注四)を通ったことになる。
たとえ異道によって起こした縁であっても、縁には違いない。

路で見かけた動物をみて「入異象行の仙人さんかも」なんて思うのは楽しい。(妄想もイイ加減にしろ)なんて思われるかもしれないが、話をあと少しだけ聞いて欲しい。

先月下旬は北海道を旅していたが、途中、野生の狐に出会わない。「今までは来る度に出会えていたのに」と思いながら最終日になった。そして釧路から苫小牧までの道中、せっかくだから襟裳岬に寄ることにした。景観を観て灯台をを見て、駐車場に向かっていた。「アッ!野生の狐です」と同行していた姫(注五)が叫んだ。「きっと入異象行の仙人さんですよ。出てきてくださった」と我々は意を揃えて言った。しかも「ルンゼイ・ラウアさん」と呼ぶことにした。
通称はルン狐(こ)。灯台近くの崖っぷちからヒョイと現れ、広い通りで急に消えた。(そんな風に見えました)
写真は「ルン狐」2013年10月30日14時22分撮影、襟裳岬にて。

(注一)2013/05/24(Fri) 三蔵フライデー「神様製造法」(006)
(注二)動物の身体で修行をする仙人。完成態を地律八光神と呼ぶ。
(注三)甲種業(こうしゅぎょう)世界の動きに関わる行動。
(注四)異道(いどう)人間どうしでは成立しない縁を、入異象行によって成立させた場合「異道を通って出会う」と表現する。
(注五)不足名姫(たらずなひめ)ムーン・ライト・スタジオ専属イラストレーター。殆どの作品表紙を姫のイラストによって装飾。



2015/02/20(Fri)  三蔵フライデー「神様製造法」(010)  

願いを叶えてくれるのが神様。なんてことを真面目に言っても咎める人は少ないだろう。しかし悪魔だって願いを叶えてくれるはずだ。但し、願いと云っても色々在るが、細やかな願いを叶える「まじない」ならば無難かもしれない。

簡単に筆文字で画いた「符」は最も身近な小さな神様だ。神様製造法としては簡単なのに高級感もある。マニアの方なら「まじない集」等の書を所蔵しているに違いない。そこで今回は手ほどきとして「虫よけ符」を試しに掲載してみた。ありふれたようで「観たことがない」はずだ。書き手によって効果は違うのは当り前だが「まじない」は素晴らしい気休めになる。

虫が出て困る場所に貼ってみたら面白い。但し、一般的な虫退治の努力を併用してのみ効果がある。要は目的に向かって心を一つにしてくれるのが、まじないの神様なのである。



2015/04/24(Fri)  三蔵フライデー「神様製造法」(011)  

今回の文章は(やや)堅苦しい。
文化教室でも学生相手でも語れるように纏めたものだ。宗教学と云うより私の所見だと思ってもらいたい。

日本の神社考(一)
〜神社が造られた理由を考えてみる〜
「特に大衆の立場から」

神社造営には「政治目的」が存在するが、ここでは一般大衆の立場に立って考えることにする。つまり人々が考える神様とはなにか。

日本語での素朴な表現として「神」と「神様」とは違う。「神」は文献や伝承による存在であり、それを人々が受け入れてきた祭祀対象である。「神様」と表現する場合は前述の「神」も含まれるが、人それぞれが礼拝したい対象になる。もちろん地域によっての言葉の相違はあるが、ここでは「祭祀されている神」と「祭祀したい神様」と云う二つの概念に大別して「神社とは何か」を考えてみたい。

日本国内には多くの神社が存在する。ここでは社数を問題にはしない。人が住む所には神社が在ると言っても過言ではない。そして大きな神社と小さな神社、凄く小さな神社を考えてみたい。大きな神社には政治目的が存在する場合がある。小さな神社には地域社会の願いがある。凄く小さな神社には個人の願いがある。やや暴言に聞こえるかもしれないが、神社に祭祀されている御神体(注一)は、人間の願いを担っているのだ。

【祭祀されている神】
神社が在れば、誰かが祭祀した御神体がある。もし大きな岩があって人が集まる場所になれば、その岩が御神体になる。これは自然に存在する物に神が宿ると考えることである。御神体が大自然なのだから、それは大きな神社だといえる。大きな神社では「神の意思」を推測する者が必ず現れる。そして政治目的へと発展するのであるが、その政治の善し悪しは「神の意思」とは関係ない。あくまで人間側にある。大きな神社は人々を代表する指導者が造り、大衆は神社が造営された後に「祭祀されている神」を認識する。一般大衆としては、それぞれ思い思いに神様を礼拝する。

【祭祀したい神様】
凄く小さな神社の一例を想定してみる。可愛がっていた猫が死んだとしたら、殆どの飼主は悲しむ。亡骸(注二)を埋葬する方法は色々あるが「何らかの方法で」祭祀したとする。そして、その飼主の心には「死んだ猫」が存在し続けるのである。あるとき飼主が病気で苦しむとする。すると飼主は、病気の苦しみに耐えるため、心の支えを「死んだ猫」に求める。そして病気が回復すると「猫が治してくれた」と感謝する。その後、猫は神様になる。もしも、猫を祭祀する場所を設ければ「凄く小さな神社」が出来上がる。これは「祭祀したい神様」の一仮定であるが、第三者が「凄く小さな神社」へ参拝する可能性もある。時間の経過により、そんな「凄く小さな神社」が地域の願いを担って「小さな神社」へと発展した実例ある。ここでは実例をあげることは避けて「祭祀したい神様」の種々相が存在することを知ってほしい。

写真は泉野鏡子が御世話している猫、この猫は神様になれるのだろうか。

(注一)御神体(ごしんたい)祭祀対象の神と通じる為の物質。例えば故人の髪を御神体として祭祀することもある。
(注二)亡骸(なきがら)肉体が活きる能力を失って魂が抜けた物。簡単に言えば死体のことであるが、生物の肉体には魂が宿ると云う考えが前提にある言葉。



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